昭和58年10月23日 月例祭



このお祭りに出ます前まで休ませて頂いておりましたら、そん時にお夢を頂きました。そのお夢と言うのがあたくしに取っては叔母になる、叔父の嫁でしたからやっぱ叔母ですね、四五十年前に亡くなっておる人ですが、もうこの人は何と言う非常に?せぶかい人で、所謂邪険な人で親戚のまぁこの人が地獄に行かんなら、行くもんはおらんめえち言うぐらいに色々難儀を持った、叔母でございましたがその叔母が夢の中に現れましてね、あたくしは子供ん時にその叔母に可愛がられましたけれど、まぁ親戚一般ではそう言う風に言っておりましたが、夢の中でも年は五十歳位の若さできちっとした身なりをしまして、あたくしは皆なへおかげで大変助かっておる、あちらではどうしてあー言う事言うたり思うたりしたでしょうか、もう今は大坪家一門の方達と一緒におかげで助かっております。
であたくしは丁度折角あの久しぶりだから家に寄って下さいち、あたくしが申しましたら今から又一門の方達の共励会がありますからと言うのです。もうその人相がそれこそ見るからに夜叉のような顔しとりましたが、お夢の中ではもう実に円満な顔態度で、所謂こんなにして助かっていくんだなーと、思わせて頂いたんですが、あたくし共信心させて頂くものはどこまでも言うなら魂、心を重点とする信心おかげが焦点ではありません。所謂和賀心なんです。心に重点置いてね、我ながらわが心が、ね、多少でも拝めれるような自分になって行く事を楽しみに、日々に生き生き信心の稽古をさせて頂かなければなりません。行く先はいずこの果て化は知らねども喜びだけは持って行きたい。ね。
この道を行けばこう言う生き方を身につけて行けば、必ず喜びは育って行くんだと言う一つの確信を持った生き方を身につけたいと思います。昨日でしたかまぁ色々お道の御本やら新聞やら、もう読めませんから恒行(ツネユキ)先生が受け持ってくれてそれを読んでくれます。昨日も色々読んでくれました中に、中外日報と言う宗教新聞のもう本当に金光教(まいの?)人ですら、これだけ深い金光教捉えておるもんは沢山はおるまいと、

思われるような素晴らしい文章で、教祖百年祭を迎えた金光教の事について書いております。その中に教祖金光大神と言う人の信心は、何処までもたとえて言うと御教えにありますように、打ち向かう物には負けて時節に任せ、人が泥棒じゃ乞食じゃと言うても腹を立てな、と言うような教えなのだからもう金光教の信心は、ここが行き詰まりだと言ったような事を書いてるんですがね、所謂もう金光教は宣伝もしないし消極的だと言う風にも、思われる文章でもございました。あたくしはそれを聞かせて頂きながら確かに今の金光教は、そこまでで留まっておるように思うのです。教祖百年祭ご大祭を境にあたくしが申しておりますように、御神誠時代から立教神殿の御内容を内容とする、信奉者で満ち溢れて行くおかげを頂いたら、限りない教団の進展も銘々の助かりも所謂願わずとも、頂けると言ったようなおかげが頂けるんだ。変わらなければならないのは、そう言う所だと度々申しておりますように、

でない限りあたくしは所謂中外日報の記者が申しておりますような、もう金光教もここ止まりだと言うような事になりかねないと思うのです。あたしは昨日?金光大神の信心はそこからの信心そこからの限りないおかげに繋がって行く、言う無限大おかげの受けられる信心だと、まぁ恒行(ツネユキ)先生と二人で話した事でした事ですけれども、まぁ確かに打ち向かう者には負けて時節に任せよ。人が例えば泥棒じゃ乞食じゃと言うても泥棒しとらにゃいい乞食しとらないい、神様が見とっおって下さるんだから信心の帯をしっかり締めなおして行けばいい、そう言う生き方ではもう教団教祖百年にしてもう金光教はここ止まり、教祖の信心がそれだったんだからと言う事になる訳。所が皆さんはどう思われるでしょうか。(?)は頂いておられる所謂合楽理念をもとどくと?そんなもんじゃない、ね、成程消極的に見えてじつを言うたら、もう合楽理念を通しての金光大神合楽理念による助かりと言うものは、限りがないのです。ね、合楽理念に基づく言うならば限りなく喜びが育って行くと言う事を楽しみの信心であり修行であるからであります。ですから消極的に見えて、

実はこれ程の積極性を持った生き方はない、言うならば超積極的の信仰だと思います。成程打ち向かう者には負けていかにもそこには負けて、ね、時節を待っておればいつかは神様が顔を洗って、下さるんだと言ったような生易しいものではなくて、それこそ合楽で言われる黙って治めると言ったような事は、そういう事ではないですね只黙ってさえおればいい、それだけだったら消極それだけではありませんよね。所謂天に任せて地に縋ると言う信心が、そこからなされてこなければならんのです。天に任せる地に縋る、今日お昼ごろ大阪からお参りしてきたご夫婦があったそうでございます。栄四郎(エイシロウ)の嫁の里のお教会の紹介で夫婦であらゆる宗教を勉強した、金光教もあちらこちらにお参りして見たけれども、合点がいかんおかげが受けられないそう言う悩みを持った方らしかったんです、こちらにお参りさせて頂いてまぁ先生方のお話を聞いて、大変まぁ感動してかえられたと言う事ですが、

それを聞いてわたくしは神様にその方の立ち行きをお願いさせて頂いておりましたら、任せると言う事をしないからと頂きました。天に任せて地に縋る、お願いはしとって自分のいいようにする、おかげは頂きたいけれども地に縋ると言うような、信心がでけていない。そこん所をあたくしの所に見えたらまぁお話させて貰おうと思うとりましたら、もう予約しとる飛行機の時間がないからと言うて、栄四郎(エイシロウ)の話だけで帰られたと言う事でございますが、そう言うような人が教団の中にもたくさん溢れておられるのじゃないでしょうか、所謂日々手ごたえのある信心手ごたえのあるおかげ、所謂合楽で言われる実験であり実証である、一足飛びでなくともそこから、ね、一日一日の信心が育って行く限りおかげも日に日に育って行かなければ、ね、日に日に喜びが本当なものになって行かなければならない。ハアーこれを頂いて行けばこれを育てて行けば、それこそ行き先はいずこかはわからないけれども、

この喜びさえ持って行けば、それは地獄の果てでもこの喜びさえ持って行けばと言う死生観と言うかね、死後の安心もね生まれてくると思うんです。先日もうそれこそ有難づくめのおかげを頂いて、お礼を申させて貰っておりましたら竹編ですね、を頂いて竹のお知らせはここで素直と言うように頂きます。それに合楽の合と言う下にこう書いて見せて下さるお知らせを頂きました。何と言う竹冠に合楽の合と書くと答えと言う字になります。これがお互いの信心の答えなんだ。自分が今難儀と感じておるならばそれはあたくし共のあり方の言うならば答えである。いつも答えの中に有り難い勿体ない畏れ多きの答えが出て来るような生き方を身につけて行かなきゃならない。只もう何年何十年もうそのおかげを頂たい、きょう大阪の方じゃないですけれども、ああ言う宗教を詳しくなって勉強しても教会で日々お取次ぎを頂いておっても、任せる事もしなければ地に縋ると言う事も、船は帆任せ風任せ親先生任せと、任せておれば良いと言う事ではない。

任せて縋ると言う事天に任せて地に縋る。ほならどうぞどうぞと言うてお願いをするだけで良いかと言うと、地に縋ると言う内容は本気で教えを行ずると言う事である。合楽で言われる今日申しております黙って治めると言う事、金光教の信心はただ打ち向かう者には負けて時節に任せ、ね、神様だけがご承知だから神様がよいようにして下さるだろう、といったような安易なものではなくて、そこから地に縋る信心そんならそれこそ断食をしたり水をかぶったり、してどうぞどうぞと言うて願うのではなくて本気で天地の心を心とするあり方が、合楽では合楽理念によってみやすう説いてありますから、ここは地の心でここは天の心でとその地の心天の心日月の心を、ね、縋る内容として行かなければならんと言う事であります。それが地に縋るこの生き方を身につけて行きさえすれば、ね、必ず信心の答えは喜びである。喜びと言う答えが出て来るのである。と信心辛抱しぬいておる苦しさと言う事の内容が、

難儀と感じておったその事が、その事を通して今まで分からなかった信心の未知の世界ね、今迄知らなかった世界を拡げて行く事が出来る。その事が楽しいその事が喜ばしいそう言う信心を身につけて行きたい。お互い只金光教の信者は宣伝もしなければ例え馬鹿と言われても、阿保と言われても黙って辛抱しとる、成程それで一生?教祖のお言葉に招待?教祖はしっかり信心の帯をせよ、ね、そう言う時にいよいよ天に任せて地に縋る信心を体得して行けと言う風に、まぁ色々角度から教えておられます。ね、それを守って行かなければそれを行事て行かなければ、日常生活の中にそう言う教えが生き生きと息づいておる生き方を身につけて行って、初めて所謂歓喜ね、喜びの妙、妙賀の世界ね、この信心を頂いてさえ行けば魂の世界に入っても、と言う安心の心が生まれて来る。とても金光教の信心をその新聞に申しておりますように、金光教の信心はもうここ止まりだと言ったような事にならないように、確かに金光教百年の信心はそう言う意味で、まぁ何て言うでしょうかね、

一つの盆栽に例えるならば大きな鉢に、こうやってそして枝を曲げたり摘んだり、ね、自分の思いはまこたち?に育てようと言う育て方、?金光教だと言う風に思えますけれどもね、ここでとっかりひとつ大地に根を下ろした信心ね、どれだけでも伸びれれるどれだけでも大きくなれる所謂楠太りのおかげを頂く為にも、ね、いよいよ天地の心を心とする天地とのコミニケーションを、喜ばせて貰いまたそれを図らせて頂きながら、信心を進めて行かないと信心がもうこよない有難いこよない楽しい、しかもあの世にまでも繋がっていけれるようなおかげに育ちません。目先のこのおかげを一つ二つ頂いたと言う頂くと言う事から、そう言うまぁ幽遠な願いを持って金光大神のお取次ぎを頂く時、金光大神が天地金の神様よりお受けになられた、神も助かり氏子も立ち行く、ね、あいよかけよで神様との交流そこに喜びがある、ね、神と氏子とが喜びおうていけれる本当の意味に置いてのあいよかけよの信心生活を目指さして頂きたい。

そして出て来る答えを見て、ね、間違っておるなら正して貰う実験実証の中にそれを体得して行く。そう言う信心を頂きたい。お互いの信心が大地に根付いておるか、ね、これならば信心が育つ、ね、所謂育つ喜び拡がるおかげを頂いて一般の人が思うておる、金光教はえらい?消極的であると従って積極的以上の積極性を持った、超積極的な信心だそれは黙って治めると言う事でもそれに徹する事だ、それはただ黙っておると言う事でなくて天に任せる心がいるんだ。そして地に縋るその縋ると言うても、只どうぞどうぞと言うのでなくて、ね、合楽理念に基づく生き方をいよいよ深めて行くと言う事が、地に縋ると言う事、ね、教祖金光大神の信心の決め手はこの任せて縋ると言う所に、あたくしはあるとおもうです。果たして任せておるだろうか、果たして本当の意味に置いてのお縋りになっておるだろうか、確かめながら信心をしなきゃいけないと思う。いよいよこの三十日は何時からですか、11時三井教会の初代荒巻弓次郎(アラマキユミジロウ)先生の五十年の式年祭がございます。

今日御教会から電話がかかってきましたそうです。合楽から何名お参り頂くじゃろうかと光昭(ミツアキ)が受けて、五十名位お参り出来るじゃろうち、あたしゃ五十名が百名でも、いやそれ以上でも合楽にご縁頂いておる人は、ね、あたくし共の心の中にいつも親教会あって、初代荒巻弓次郎(アラマキユミジロウ)先生の御信心あって、こんにちの大坪(オオツボ)があり合楽があるのでございますから、どうぞご参拝が出来られますようにお願いをいたします。お参りが出来ない方は玉串でも奉らせて頂けれる事が大切だと思います。どうぞよろしくお願いいたします。